
thanks to: JAPAN SPORTS for photos, PAJA for illustrations
by AIKO SHIMAZU 島津愛子
December 13, 2013 in Fukuoka
FS"龍馬伝" @ 2010 All-Japan
PP: まずは、中庭健介「選手」が中庭健介「先生」になられてから 中庭健介さんのことを知った、という皆さんに中庭健介選手の御紹介から入らせて頂きたいのですが、⋯大変申し訳ないことに、かく言う、私も中庭健介選手を存じ上げなくて⋯
KN: あー、(優しく微笑まれる中庭先生)
PP: でも現存の動画を全部拝見しまして!
KN: ハイ(笑)
PP: 「⋯これは⋯すごい⋯『逸材』が現れていたんだッ」と!
KN: えぇ?(笑)
PP: いえ、今活躍しているいろんな選手が「中庭健介」選手の中に居るな、と思いまして、一番感じたのが、「フェルナンデス」選手(スペイン)、
KN: あー、
PP: そう、技術面芸術面で整ってる、その上に役者肌で。
それに、マインドが「町田樹」選手——Pigeon Post にとっては「樹先生」なんですけど(笑)、
KN: (笑) どうでしょうねぇ、
PP: 中庭健介選手にも、「フィギュアスケートは、芸術性・技術力の融合。」という名言があって。自分も、「スポーツとアートが一緒になってるから、おもしろいんだ!」って思ってるので、
KN: そうです、そうです。
PP: それから、体のキレ方が「羽生結弦」選手、
KN: 昔、「兄弟?」とか言われてましたけど(笑)、
PP: やっぱり!
KN: 顔は似てないんですけど、「雰囲気」が似てる、と。
PP: そう、初速より終速が速い、っていうモーションの感じが同じで。
で、踊りの"間合"が、中村健人選手みたいで⋯ 佇まいも、シュッとされてて。
KN: (笑) いやいやいや⋯
PP: そして、「29歳」まで、長く競技を続けられていたので、「メンショフ」選手(ロシア)、
KN: そうですね、
PP: そんな風に「いろんな選手のいいとこ取りだ!」と、遅ればせながら盛り上がって、録画の演技を楽しませて頂いていたのですが、解説者・中庭健介先生から見た「中庭健介選手」はどんな選手でしたか?
KN: やっぱり⋯ 自分が今 こういう「人に教える」立場になって、改めて客観的に「今まで自分がどう歩んで来たか」を、ふと考える時があるんですよ。
選手をやっている時って そんな余裕はなくて⋯実際にレールの上を走っている最中なので。「走り終わった時に見渡す」というか、(テーブルを指でなぞってレールを見せて下さる中庭先生)「ココをこう来て、こうなっていったんだろうな」とか、逆に、「ココでもっとスピード上げとけばよかったな⋯」とか、「ココ、曲がっとけばよかったよな⋯」とか。もちろん、人間誰しもそういう「過去を振り返る時間」があると思うんですけど。
現役の間に考えられなかったことも、この立場になって考えて、一番思ったのは、良い意味で「手を抜くのがうまい(選手)」(笑)
PP: !?
KN: (笑) =「力を抜く」のがうまい。
PP: おおー、
KN: ジャンプの(回転の)キレなんかもそうですし、力を抜くところは抜いて。
PP: スポーツがんばってるキッズは、理想のフォームに挑戦しながら、最終的に「力まないこと」を目指しますよね。
KN: あと、怪我をしない、ということもそうですし⋯
練習でうまい具合に抜いていたから、ここ一番で弱かったり(笑) 四回転は飛べてたんですけど、外から見た場合、少し弱かったと思います。
良い意味で「力みのない」感じではあったんですけど、ちょっと「手を抜く」というか、そういうところもあったのかなぁ、と。
PP: 表裏一体みたいな⋯
KN: 後悔はないですけどね、「もうちょっとこうしとけばよかったな」というのが多々あって。この(指導者の)立場になって、「子供達にそういう道を歩まさない」というか!(笑)
PP: (笑) そうですか?
KN: (笑) もうちょっと頑張ってもらいたいな、って。「自分は弱い人間だな」ってつくづく思いましたよ、「弱っちぃな」って(笑)
PP: イヤイヤイヤ!
KN: 今、この「日本男子のすんごいの」見ると、僕だったら、この弱さでは戦えないな、と(笑) その当時は3〜4名位の争いでしたから。今は6名、その下にも多数いるような状況で。
PP: ⋯「ミアキス」って御存知ですか?
KN: ?
PP: イヌ科やネコ科の動物やクマやパンダやアザラシ達が一緒になってる動物が、かつていたんですよ、
KN: えぇ?(笑)
PP: それらの「祖先」で、中庭健介選手は、その「ミアキス」かな、と自分は思ってるんですけど。
KN: (笑) ⋯「何でもこなせる」っていう感じではありましたね(笑)
PP: そうなんですよ!
KN: (笑) それはありますね。
PP: 「ミアキス」なんですよ!
KN: (笑) ⋯どんな風⋯っていうか、見た目はどんな感じの?
PP: 見た目は、同じく、シュッとしてるんですよ!
KN: (笑)
(☞ 「ミアキス」の見た目 画像 on britannica.com 木登りや狩猟に適した爪、機敏な動きを可能にする細長い胴体、肉食の屈強なアゴを持つ)
PP: 中庭健介選手のプログラムもここで改めて御紹介したいんですけど、どのプログラムがいいですかね?
KN: よく聞かれるんですけど、「これが好き」とか「一番成績を残した」とかではなく、「あのプログラムから『自分』が出始めた」というのが、デイヴィッド・ウィルソン先生に作って頂いたフリーの"ロード・オブ・ザ・リング"、⋯ではないかな、と。
やっぱり、デイヴィッドとの出会いが一番大きかったですかね。僕、ハタチの時に出会ったんですけど。今でこそ世界に名だたる振付師で、ヨーロッパから北米からアジアから、国内外の選手に振り付けられていますが、その当時は 主にカナダ国内で活躍されていて、ジェフリー・バトル選手の振付をずっと担当されている、「ジェフの振付師」という感じが日本では強かったと思います。
"ロード・オブ・ザ・リング"は、デイヴィッド振付のプログラムの2作目になるんですけど、初めてプログラムを作ってから3年目で、「僕のカラー」を引き出して頂いた、という。やはり、初めて振り付けてもらう振付師さんと選手の間には距離がある、というか⋯「僕に何が出来るのか」先生には分からないですし、僕も緊張したり。英語でのコミュニケーションですし。それが3年位経つと、先生も僕もマッチングするようになって。
曲は僕がリクエストしたんですけど、最初は突き返されて。
PP: !?
KN: 「有名な曲」過ぎて。「有名な曲過ぎると、味が出しにくいので」と言われて、替えの曲を送ったところ、現地に行ったら"ロード・オブ・ザ・リング"になってたんですよ。
PP: !!
KN: だから、「使うべくして使った」曲、でしたね。
PP: 運命的な。
KN: 「何かひとつ」選ぶんだったら、"ロード・オブ・ザ・リング"になるのかな、と。
PP: ⋯私は、中庭健介振付師の"ロミオとジュリエット"、
KN: あー、あれは、自分の「振付」っていうか⋯エキシビションなので!(笑)
PP: エキシビションですけども!
KN: (笑) エキシビションは何でも出来ますからね、点数がつかないから。
PP: 点数がつけられないほど、カッコイイんで!
KN: (笑)
PP: 現代を舞台にした映画の"ロミオとジュリエット"のように、クラシックバレエのムーヴがコンテンポラリー(現代)な音楽にマッチングしていて。圧倒的に「プリンシパル(花形バレエダンサー)」でした!
KN: ⋯今、やってないのは「振付」なんですよ。振付だけはやれないな、って。
PP: えー。
KN: デイヴィッドとかを見てるんで、あんな想像力もないし⋯ 3年間コーチをしていて、作ったこともあるんですけど、全国の試合に出場するような選手の振付はやれないな、って、ずっと拒否ってるんで!(笑)
PP: 受けて下さい!
KN: そう言って頂けるとやる気も出て⋯(笑)
PP: お願いします!
ほんとに⋯ああいう、叙情的なコンテンポラリーの構成が×正統派のポジションで織り成されていく振付は見ないので!!
KN: 選手がやるのと自分がやるのは違うので⋯ エキシビションだから、ある程度決めてはいたんですけど、アドリブもあったり、その時々の雰囲気で振付も変わっていって。
PP: ⋯中庭健介さん振付の中庭健介選手にしか踊れない"ロミオとジュリエット"が、自分には一番刺さりました!
KN: (笑) 荒川(静香)さんも、「ショーに出る時はあれ滑ってね」って言って下さって。エキシビションの中では、あれなのかな、って。
EX"Romeo and Juliet" @ 2006 Medalist On Ice
PP: そして「ここまでの中庭健介さんの歩み」は、スーパーアスリートになられる→学業と両立→長く現役を続けられる→指導者になられる・解説者になられる、と「全部乗せ」で!
KN: (笑) そう⋯ですかね?
PP: そうですよ、スポーツがんばってるキッズの夢が全部叶ってて!だから、「ココをこう来て、こうなっていった」っていう歩みを是非、教えて頂きたいです。
まず、どうやってフィギュアスケートを始められたのでしょう?
KN: 僕が始めた頃は、フィギュアスケートはこんなにメジャースポーツではなくて、今のようにゴールデンタイムの放送はほとんどなく、オリンピックと世界選手権とNHK杯位で、それを見ていた記憶はあります。でも、それを見て「こういう人になりたい!」って始めたわけではないです。
今はなくなってしまったんですけど、実家の近くにスケート場があって、そこで友達3〜4人組で遊びに行ったのが、そもそものきっかけです。
その友達とスケート教室に通って1年位が経ち、なぜか、僕以外の友達はアイスホッケーを始め(笑)、なぜか僕だけフィギュアをやってたんですよ。当時は小学校二三年で、ほとんど記憶はないんですけど、ずっと教えて頂いていた石原(美和)先生に声をかけて頂いたのが、フィギュアへの入り口でしたね。
その当時は、フィギュアへの認知度もなくて、「全身タイツ着てやるの?」とか(笑)、
PP: (笑) それはスピードのほうだ!
KN: 橋本聖子さんですとか、スピードスケートの選手の皆さんが活躍されていて、フィギュアは知られていなかったので、ずっとやめたかった、というか⋯そういう気持ちを憶えてますね。「とにかく、やめたかった」です(笑)
PP: えー(笑)
KN: でも、幼い頃は「やらされてる」というか。中学生位になると、「自我」も出て、「自分のやりたいもの」も出始めて。その時代は、Jリーグも発足し、福岡にホークスもやって来て、
PP: オオー!
KN: 「男の子はサッカーか野球しかやってない」、そういう時代の流れだったんで、僕もずーーーっと「サッカー選手になりたい」とか「野球やりたい」とか言ってましたね。何度も「やめます!」って、「ここまでやったらやめさせて下さい」ということを常に言っていて、でも、ちょうどそれ(目標)に到達しないんですよ、いっつも。だから「なんか悔しい」んですよね、自分の中で。
PP: やり切れない、
KN: そう、それで、中二の全日本ジュニアに出た時に、初めて「やめたい」という気持ちはなくなりました。全国に出て全国のライバルを見て、同世代や年下の子の演技を肌で感じて、「あー、もっとうまくなりたいな」と。
あと、「世界」も知りましたね。「これでこうなると、世界に行けて、あのテレビで見ているような試合に選ばれていくんだ」という道筋を知ったんですね。それまでは、「全日本がある」位しか知らなかったので。
PP: 全体に対する自分の位置とか力量が見えて。
KN: やはり、いい人に巡り会えた、というか。当時トップにいたのは本田(武史)先生であり、田村(岳斗)先生で、本田先生は僕の一つ上・田村先生は二つ上で、ひとくくりで言うと同世代なんですけど、「なんてすごい人がいるんだろう!」と。その時はもう、(天空を指差されて見上げる様子の中庭先生)こんな存在ですよ(笑) 僕はもう、地方から出て来た真ん中の選手で、本田先生は中三で優勝・田村先生は高一で2位。
それまでは、そんな「すごい人がいる」ということすら知らなくて。情報も入って来なかったので。
PP: ええー。
KN: (笑) そういう時代で。⋯本田先生や田村先生のような「すごい人」をそこで見て、「ああ、こういう風になるといいな」と。
だから、中二を起点にうまくなりました。中三からは全国で一桁に入るようになって、海外の試合にも派遣されるようになったので。
KN: ターニングポイントはやはり、(指折り数えられる中庭先生)(1)石原先生に声をかけて頂いてフィギュアの世界に入って→小学校の間は「やらされてる」感もありつつ、「フィギュア(の道に進むの)、どうかな⋯」と宙ぶらりんだったんですけど、(2)中二の全日本ジュニアをきっかけに「(進む道は)フィギュアだな」と。そう、口にはしなかったですけどね。そこからは「(フィギュア)一筋」でした。
PP: 中学の終わりから高校にかけては、スポーツがんばってるキッズの誰もが、「学業との両立」という壁にぶち当たると思うんですけど⋯日本では「就職」が関係してくる年代にもさしかかって。
KN: ああ⋯僕の場合は、「高校さまさま」でしたね。実家の近くで、「個人でやっている選手をバックアップしよう」という高校に、全国中学校大会で成績を残していたこともあって推薦で進学しまして。
フィギュアスケートもそうですけど、ゴルフとか、「個人スポーツの選手」を集めた「総合体育部」があり、マイナースポーツの選手も助けていこう、という高校で。
PP: ありがたいですね!
KN: すごくサポートして頂いたんですけど、ただし、すごく厳しかったです!(笑) 「公欠以外、全て来る」のが条件で、試合で疲れたから休むとか、練習で休むとかも出来なくて⋯だから僕実は、小・中・高、皆勤賞なんですよ(笑)
KN: あと、全部通いやすいところにあった、というか。ちょうど、自宅・学校・リンクが2キロ圏内で、全部自転車で行けるんですよ。
PP: いいですね。
KN: 高校三年生までそのリンクがありましたので、環境にも恵まれていましたね。だから僕は、高校でキツイ思いをした、というのがあんまりなくて⋯中三からようやくトップの仲間入りをして、小学校中学校では宙ぶらりん状態だったので。
結構、今の子達は、小・中で(上向きの折れ線グラフを表される中庭先生)グァーっとやって、高校で(下向きに)ブワン、とドロップアウトする子が多数いるので。僕はその逆でしたね。
中三で火が点いて、高校三年間でコツコツコツコツ順位も上げていって、出られる試合も増えていって。そういう意味で、高校三年間は壁らしい壁はほとんどなくて、ぶっ飛ばしてた、って感じですね。
PP: そうやってトップ選手になられてからが!また長いんですけど、どうやって続けて来られたのでしょう。
KN: ⋯やっぱり、「大ちゃん(高橋大輔選手)達の存在」ですよね。僕と大ちゃんは4つ離れてるんですよ、織田君は5つ。彼らが一番近い世代で。当時は大学を卒業して続けてる人が少なかったんですよ、本田先生とか田村先生とか、ほんの一握りのトップの選手だけで、あとは皆やめていって、僕の世代がほとんどいなかった。先輩達も頑張って続けられていたし、いい火を点けてくれる後輩も出て来たので、「まだまだやれる、負けたくない」って思ってました。
高いレベルで迫って来ている後輩達、その「上昇気流」みたいなものに一緒に乗れた、というのも長く続けられた理由のひとつですね。
KN: 先輩後輩、意外にきっちりしてるんですけど⋯高橋君なんかも僕に敬語で話しますし。「敬語で喋るな!」っつうのに(笑) 一人一人皆、人間性も素晴らしいですし。だから強いんだな、彼らに憧れる子供達も増えるんだな、って。⋯まぁー、一言で言うと、皆「いいやつ」、しかいない!
PP: 本当に!
KN: だからこそ、「僕も彼らと頑張りたい」と。きっちりしている中で、和気あいあいとして仲が良い、そういう輪の居心地がよかったです。
KN: それから、時代も変わってきて。その当時から、少しずつテレビで試合も放送されるようになって、アイスショーも開催されるようになったり⋯という時代背景が、ちょうど僕が(去就に)悩んでいた頃と重なったのかなぁ、と。やっぱり「露出」が増えると、支援を頂く機会も増えるので。